"七月七日に催しを行った最初の日本人は、持統天皇であると言われています。
日本書紀には「公卿に宴を賜う」とのみ書かれており、宴で七夕らしいことをしていたかどうかは分かりません。
次に記載があるのが聖武天皇で、日本書紀に「天皇、相撲戯を観たまう。この夕、南苑に徒御し、文人に七夕の詩を賦せしむ」とあることから、七月七日の夜に七夕の行事が催されたことが分かります。
万葉集には七夕の詩は130首も残されているので、当時の七夕の宴は詩を詠むことがメインの行事だったと思われます。
中国の""乞巧奠(きこうでん)""という七夕行事を最初に行ったのは孝謙天皇という女帝で、「公事根源」という書物に記録が残されています。
正倉院に「七孔針」という宝物が収められており、三本の長い針と四本の短い針なのですが、これは当時乞巧奠で使われたもののようです。
この時期に、遣唐使によって七夕伝説も伝わったと言われています。
室町時代の武家社会にも、七夕の行事は好まれていたようです。
人を集めて宴を開き、七百首の詩歌、七調子の管弦、七十韻の連句・連歌、七百の毬、七献の酒など、七の数にちなんださまざまな催しが行われました。
節句の一つとして七夕を祝うようになったのは江戸時代のことで、五色の短冊や切り紙細工に願い事を書き、笹に吊るして飾りました。
伊達政宗は婦女子文化の振興のために七夕祭りを奨励し、仙台では七夕祭りが華やかに催されていたとのことです。
中国では七夕の行事はすたれてしまいましたが、伝えられた日本では五節句に数えられるまでになり、現代でも笹飾りや吹き流しが夜空を彩っています。
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